2015年8月16日日曜日

051_偏った「観点」が「観点」を創る

先日、書店である1冊の本を手にしました。
戦後の歴史についての本でした。

読み進めていく時に、何か違和感というか、
読みにくさを感じました。

それは、文章の表現、ニュアンス、単語の使い方に偏りがあること。
それと同時に、この本を読んだ読者に偏りを与える可能性があるということ。
それに気づきました。


歴史についての本なので、もちろん色んな「観点」があり、
どの「観点」から表現するのかで、全く違うストーリーが展開される。
それは重々承知していたのですが、

ほとんど戦後についての知識がなかったり、
歴史を知らなかった人が読んだ時に、
読み進めていって、その論理に納得すれば、
本を読み終わる頃には、その偏った「観点」を創り出してしまうと思ったのです。


当たり前のようで、すごく恐いことだと思いました。
日本人は特に歴史について関心が薄かったり、
学校の教科書だけでは年表レベルの知識しかありません。


そんな日本人が偏った「観点」に気づかず、
新しい知識としてインストールしたら...そう思ったら本当に恐いです。


それに、同じように偏った「観点」で知らず知らずに
「観点」を創り上げていくことが、リアルに実感として感じられました。


でも、これも日本人であればこそですね。
相手に合わせて「他者(外)を基準にする」という出発があるからこそ、
外や環境から創られやすいというのも思いました。



文末の言葉が肯定文か、否定文かで感じ方が違うというのは、
解りやすい例だと思います。
でもそれだけではなく、
肯定、否定はあくまで誰かの基準によるもので、判断しています。


本であれば、著者がその判断元になりますが、
事実と意見が混ざっていることが余計に読者を惑わします。

また、「〜のようだ」とか「〜かもしれない」などの
曖昧な表現も多く、どこまで解っていることで、
どこからが推測なのかということも曖昧になってしまいます。


『どんな事実があったから、この意見と判断する』


そういう表現でなかったとしたら、
著者がどんな事実に対して、そう判断したのかが見えにくくなりますし、
著者の「意見」が「事実」かのように
思い込んでしまうことも、あるのではないでしょうか。



私が手にした本の著者は、日本に対しての想いに溢れ、
なんとか日本人の敗戦国として卑下している認識を改め、
誇りを取り戻させたい!そんな強い想いを感じます。


想いが強いからこそ、対極の意見や見解に対して
強く否定的な表現を使っているように感じました。


私は、この本の著者の表現が正しいとか、間違っているとか
そういう事が言いたいのではありません。



情報を正しく認識する為にも「観点」に対しての理解が必要です。



どちらが正しい、間違っているの論争では、
平行線が続き、決して解決することはできません。



対極の意見をwin-loseにさせることではなく、
それぞれをwin-win、さらには全体を底上げするall win
そのVISIONを提案できる「観点」が必要なんだと思いました。








認識が、世界を変える!
Schritt für Schritt

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