先日、書店である1冊の本を手にしました。
戦後の歴史についての本でした。
読み進めていく時に、何か違和感というか、
読みにくさを感じました。
それは、文章の表現、ニュアンス、単語の使い方に偏りがあること。
それと同時に、この本を読んだ読者に偏りを与える可能性があるということ。
それに気づきました。
歴史についての本なので、もちろん色んな「観点」があり、
どの「観点」から表現するのかで、全く違うストーリーが展開される。
それは重々承知していたのですが、
ほとんど戦後についての知識がなかったり、
歴史を知らなかった人が読んだ時に、
読み進めていって、その論理に納得すれば、
本を読み終わる頃には、その偏った「観点」を創り出してしまうと思ったのです。
当たり前のようで、すごく恐いことだと思いました。
日本人は特に歴史について関心が薄かったり、
学校の教科書だけでは年表レベルの知識しかありません。
そんな日本人が偏った「観点」に気づかず、
新しい知識としてインストールしたら...そう思ったら本当に恐いです。
それに、同じように偏った「観点」で知らず知らずに
「観点」を創り上げていくことが、リアルに実感として感じられました。
でも、これも日本人であればこそですね。
相手に合わせて「他者(外)を基準にする」という出発があるからこそ、
外や環境から創られやすいというのも思いました。
文末の言葉が肯定文か、否定文かで感じ方が違うというのは、
解りやすい例だと思います。
でもそれだけではなく、
肯定、否定はあくまで誰かの基準によるもので、判断しています。
本であれば、著者がその判断元になりますが、
事実と意見が混ざっていることが余計に読者を惑わします。
また、「〜のようだ」とか「〜かもしれない」などの
曖昧な表現も多く、どこまで解っていることで、
どこからが推測なのかということも曖昧になってしまいます。
『どんな事実があったから、この意見と判断する』
そういう表現でなかったとしたら、
著者がどんな事実に対して、そう判断したのかが見えにくくなりますし、
著者の「意見」が「事実」かのように
思い込んでしまうことも、あるのではないでしょうか。
私が手にした本の著者は、日本に対しての想いに溢れ、
なんとか日本人の敗戦国として卑下している認識を改め、
誇りを取り戻させたい!そんな強い想いを感じます。
想いが強いからこそ、対極の意見や見解に対して
強く否定的な表現を使っているように感じました。
私は、この本の著者の表現が正しいとか、間違っているとか
そういう事が言いたいのではありません。
情報を正しく認識する為にも「観点」に対しての理解が必要です。
どちらが正しい、間違っているの論争では、
平行線が続き、決して解決することはできません。
対極の意見をwin-loseにさせることではなく、
それぞれをwin-win、さらには全体を底上げするall win
そのVISIONを提案できる「観点」が必要なんだと思いました。